タイトル:若い芸術家の肖像(集英社文庫)
作者:ジョイス(Wikipedia)
訳者:丸谷才一、永川玲二、高松雄一
半年以上をかけてユリシーズを読み終えて窓の外を見ると2013年最後の日の入りが迫っていた。まぶしく太陽を直視できなかったけれど、日が沈む前に読み終えることができて、気分よく2013年を終えることができることが気がした。
読み終えて数時間経った今となっても、ユリシーズについて何を書くべきか考えあぐねているのだけれど、いったんレビューを年内に終わらせることを目標にこのエントリーを書き始めてみる。
* * *
ユリシーズを読もうと思ったきっかけは、「若い芸術家の肖像」のレビューでも書いたように、多くの作家がユリシーズという作品に作品の中で言及していたからに他ならない。文学を愛するものとして、現代の小説に多大なる影響を与えている本を読まないわけにはいかないと思ったからだ。
若い芸術家の肖像を読み終えたのが5月ごろだとすると、ほぼ半年をかけてユリシーズを読んでいたことになる。もちろん、その間に他の本も読んだ。というよりも、正確には、ユリシーズの難解さに辟易して、もっと簡単で分かりやすくて、ストーリーのおもしろいものを読みたいと思って他の本に逃げていたのかもしれない。
ユリシーズの読み進めにくさは、その文章自体に依るものだと断言できる。
ストーリーはギリシア神話の「オデュッセイア」になぞらえて、ダブリンの1日を18章に分けて描いているのであるから大体時系列で起きていく。登場人物たちの数も重要人物だけを抑えればさほど多くない。
けれど、それなのに、であるからして逆に、延々と続く技巧的な文章、読むだけでは理解できないことを前提とされていることを示す膨大な注釈付きの文章の波に漂い続けていると海に入っているように頭の体力が奪われてしまう。決して眠たくなるような類の文章ではないのだけれど、能動的な読む行為を強いてくる上に、一度に読み進める量を制限してくる文章の密度。
ただ、ダブリンの一日を描くのに、こんなにも長い文章の羅列がなぜ必要だったのだろう。
18章すべてを違った文体で描き分ける必要はどこにあったのだろう。
なぜ、ジョイスはこの本を書いたのだろう。
読み終えたー!という達成感の他に得たものは、この作品への疑問ばかりである。これらの疑問こそが、読み終えて得ることのできる戦利品と言えるのかもしれないけれど。
ジョイスやユリシーズに関して研究された本も読んで近いうちにまた1章ずつゆっくりと読み直したいというのが今の正直な気分です。





















