作者:アーシュラ・K. ル=グウィン(Wikipedia)
訳者:清水 真砂子
6月と7月の頭にかけてゲド戦記を読んでいた。
昔から、思い返せば小学生ぐらいの頃から本の存在は知っていたのに、その名前(ゲドという音の響き)から、言い知れぬ怖さを感じて敬遠していたのだ。ジブリで映画化もされているのも知っているけれど、これも見ていない。
最初の「影との戦い」は、ゲドが自分自身の影を呼び出してしまい、その影を取り戻す旅という言ってみれば鉄板のファンタジーのプロットの物語である。海を縦横無尽に船を使って駆けまわり、ゲドと一緒にアースシーという世界の広さを感じながら冒険することができる。
けれど、二巻目の「こわれた腕輪」からはいわゆる冒険モノのファンタジーとは少し様相が変わってくる。
そもそも、ゲド戦記と銘打ちながら、第二巻の物語の主人公はゲドではなく、テナーという魔法使いを信用しない地域の人々の巫女の話になる。テナーの冒険は、地理的な広がりはなく、地下世界というミステリアスな舞台はあるものの一人の女の子が自分自身と向き合うことで精神的な自立を獲得していく様子が描かれている。
第三巻の「さいはての島へ」は、再び大賢人ゲドの活躍と新たな主人公でありハブナーの王となるレバンネンの冒険の物語であるが、ゲドの役回りはレバンネンのメンター的なところに移り、ゲドが物語にもたらす価値は魔法そのものの力ではなく大魔法使いが学んだ世界の真理が言葉や佇まいから語られることにある。
第四巻の「帰還」は驚くべきことに、ゲドは魔法の力を失っている。この本の主人公は、ゲドの帰りを待つテナーであり、テナーがその生命を救い娘として育てている右上半身を焼かれたテハヌーの物語である。二人はともに暴力や力に怯える女として描かれている。読み進めても胸躍る冒険もなければ分かりやすい教訓もなく、うつうつとした気分になると言っても言い過ぎではないだろう。
第五巻は、表題作であり次六巻につながる「ドラゴンフライ」を含む5つの短編から構成されていおり、アースシーの魔法の力を持つ人々を中心に描かれている。「ドラゴンフライ」は、竜でありながら人間の娘として生まれついたアイリアンのお話で、ロークの学院すなわち魔法使いたちの権力世界が揺るぎ始めていることが感じ取れる。
最後、第六巻は魔法使いの力を信じ、レバンネン王を擁するアーキペラゴの人々とカルガド帝国の人々、さらに竜を含む3つの人種(種族)の人々がアースシーの均衡を取り戻すために試行錯誤する物語になっている。ここでは、1〜5巻で語られていた魔法と魔法使いたちの影響力そのものに疑問が呈され、新たな均衡がもたされる形で物語が終わっている。
新たな時代が幕開けしたことだけは確かそうで、もしかしたら、魔法は消えた(ていく)かもしれないけれど、今後のことは分からない。
最初は一人の少年ゲドの視点から捉えられ大きく広いと感じていたアースシーの世界も、徐々にその規模に慣れてくる。聞き慣れなかった架空の地名に馴染んできたという読者的な事情もあるだろうが、慣れてしまえばアースシーだけが世界ではないことも自ずと承知されてくる。竜が西方に飛び去り、人が変化と覚悟を受け入れることが自然なことに思えてきて、魔法の消失を感じさせる喪失感ともとれるような読後の心のしこりには新しい世界に飛び込んでいく前夜のような緊張が間違いないく交じっている。
ファンタジーと言えば、小学校の頃に大好きだったナルニアを昨年あたり読みなおしてみようと思ったら、3巻目の朝びらき丸あたりから飽きがきてしまった。ゲド戦記も文章自体は平易な部類に入るかもしれないが、大人でも最後まで飽きることがない物語だ。岩波少年文庫からの出版だけれど、本作は読む人によって多様な感動を得られる、読者を限定しないファンタジーなのだろう。人間の普遍的な心の問題を描いていること、生と死の問題、愛、日々の生活の充足への賛歌を描き出していることを考えればむしろ、ゲド戦記は大人のためのファンタジーと言ってもいいのではないかと思う。
訳者:清水 真砂子
6月と7月の頭にかけてゲド戦記を読んでいた。
昔から、思い返せば小学生ぐらいの頃から本の存在は知っていたのに、その名前(ゲドという音の響き)から、言い知れぬ怖さを感じて敬遠していたのだ。ジブリで映画化もされているのも知っているけれど、これも見ていない。
最初の「影との戦い」は、ゲドが自分自身の影を呼び出してしまい、その影を取り戻す旅という言ってみれば鉄板のファンタジーのプロットの物語である。海を縦横無尽に船を使って駆けまわり、ゲドと一緒にアースシーという世界の広さを感じながら冒険することができる。
けれど、二巻目の「こわれた腕輪」からはいわゆる冒険モノのファンタジーとは少し様相が変わってくる。
そもそも、ゲド戦記と銘打ちながら、第二巻の物語の主人公はゲドではなく、テナーという魔法使いを信用しない地域の人々の巫女の話になる。テナーの冒険は、地理的な広がりはなく、地下世界というミステリアスな舞台はあるものの一人の女の子が自分自身と向き合うことで精神的な自立を獲得していく様子が描かれている。
第三巻の「さいはての島へ」は、再び大賢人ゲドの活躍と新たな主人公でありハブナーの王となるレバンネンの冒険の物語であるが、ゲドの役回りはレバンネンのメンター的なところに移り、ゲドが物語にもたらす価値は魔法そのものの力ではなく大魔法使いが学んだ世界の真理が言葉や佇まいから語られることにある。
第四巻の「帰還」は驚くべきことに、ゲドは魔法の力を失っている。この本の主人公は、ゲドの帰りを待つテナーであり、テナーがその生命を救い娘として育てている右上半身を焼かれたテハヌーの物語である。二人はともに暴力や力に怯える女として描かれている。読み進めても胸躍る冒険もなければ分かりやすい教訓もなく、うつうつとした気分になると言っても言い過ぎではないだろう。
第五巻は、表題作であり次六巻につながる「ドラゴンフライ」を含む5つの短編から構成されていおり、アースシーの魔法の力を持つ人々を中心に描かれている。「ドラゴンフライ」は、竜でありながら人間の娘として生まれついたアイリアンのお話で、ロークの学院すなわち魔法使いたちの権力世界が揺るぎ始めていることが感じ取れる。
最後、第六巻は魔法使いの力を信じ、レバンネン王を擁するアーキペラゴの人々とカルガド帝国の人々、さらに竜を含む3つの人種(種族)の人々がアースシーの均衡を取り戻すために試行錯誤する物語になっている。ここでは、1〜5巻で語られていた魔法と魔法使いたちの影響力そのものに疑問が呈され、新たな均衡がもたされる形で物語が終わっている。
長は言った。「竜は自由に生き、残された私たちは自らの選択を引き受けていく。それしかないのではないでしょうか。」
「善と悪に線を引くことを選びましたものなあ、わたしたちは。」オニキスが言った。
「ものをつくり、形にしていくよろこびも。わたしたちが獲得してきたものといったらたいしたものです。」セペルが言った。
「そう。それに、欲の深さも、弱さも、不安も。」アズバーが言った。
(アースシーの風より)
新たな時代が幕開けしたことだけは確かそうで、もしかしたら、魔法は消えた(ていく)かもしれないけれど、今後のことは分からない。
最初は一人の少年ゲドの視点から捉えられ大きく広いと感じていたアースシーの世界も、徐々にその規模に慣れてくる。聞き慣れなかった架空の地名に馴染んできたという読者的な事情もあるだろうが、慣れてしまえばアースシーだけが世界ではないことも自ずと承知されてくる。竜が西方に飛び去り、人が変化と覚悟を受け入れることが自然なことに思えてきて、魔法の消失を感じさせる喪失感ともとれるような読後の心のしこりには新しい世界に飛び込んでいく前夜のような緊張が間違いないく交じっている。
ファンタジーと言えば、小学校の頃に大好きだったナルニアを昨年あたり読みなおしてみようと思ったら、3巻目の朝びらき丸あたりから飽きがきてしまった。ゲド戦記も文章自体は平易な部類に入るかもしれないが、大人でも最後まで飽きることがない物語だ。岩波少年文庫からの出版だけれど、本作は読む人によって多様な感動を得られる、読者を限定しないファンタジーなのだろう。人間の普遍的な心の問題を描いていること、生と死の問題、愛、日々の生活の充足への賛歌を描き出していることを考えればむしろ、ゲド戦記は大人のためのファンタジーと言ってもいいのではないかと思う。
