2009年7月27日月曜日

『怖るべき子供たち』


私が、ジャン・コクトーに興味を持ったきっかけは、テレビか何かでたまたま見た、彼の手がけた教会が美しかったからだ。

名前は、知っていたけれど、彼の文学よりも、彼の詩よりも、彼の描き出す線が好きだった。

藤田嗣治の絵と同じぐらいコクトーの絵が好きで(I love Fujita so much!!!)、藤田の裸婦の絵を携帯電話の待ち受け画面にしていて、後輩にドン引きされてからは、コクトーのパリの絵を画面に設定しているぐらいなのだ。

その後、ジャン・コクトーの多彩ぶりに興味を持ち、堀口大學の訳したコクトー詩集を手にはしたものの、原文の美しさにあたる機会がなかったために(詩に関しては、完全なる原語主義です!)、コクトーは私の中で待受画面の人どまりになってしまっていた。

そして、つい最近、松山ケンイチのスペシャル・カバーとかいう角川文庫のキャンペーンのおかげで、店頭で平積みされたコクトーに再び出会った。

怖るべき子供たち、だ。

子供には、確かに、彼らだけのルールによって統制される空間・時間がある、ということを意識の上に引っ張り出してくれる本である。

そのルールによって生み出される秩序は、もはや常識の世界に生きる私たちにとっては理解しえない世界でありながら、常に、大人と呼ばれる人々の世界とパラレルに存在する安定感を持っている。

私たちは誰もがその過程を潜り抜けており、本能的にその存在を無視できない。

子供らの世界の存在を誰もが直感するからこそ、この物語が、寒気ただよう、 terribleな(狂気じみた)物語となりえることを、ジャン・コクトーは確信していたと感じる。

思い返してみれば、私自身も、子供のころに確かにあるルールを持って友達と独自の世界に浸っていたことがある。

そして、それは思い返すことがかろうじて許されたとしても、言語化して、他人と、そのときに一緒に世界を創り上げた友達とでさえ共有することは決してゆるされないものであると私は思っている。

だからこそ、この本の主人公であるエリザベートと弟のポールに狂気はまったく感じないし、特異性も感じない。

その代わりに、その現実味によって緊迫感すらある戦慄を覚えるのだ。

そして、コクトーの無邪気な確信と、その(本著作による)実現こそが、彼が天才的な感性の持ち主であることの証明だ。

何しろ、彼がこの作品を完成させたのは40歳前後なことを考えれば、子供の頃の遊戯の意味をここまで鮮明に取り出しながら、同時に再現することが可能な鋭さを持ち合わせていたことになるからだ。







角川文庫の訳者は、油彩画家の東郷青児であったが、彼はあとがきにこう記している。

“画家の私から見ると、この詩小説はほとんど色彩を感じない。(中略)彼のパレットには灰色か、白か、さもなければ燻銀のような黒しか並べてないようである”

まさに!

この本は、厚い雲のたちこめる空の下、しんしんと降る雪をバックにしたある部屋の中で執り行われる遊びの模様であるる。

しかし、驚くべきは、その色彩の少なさをもってなお、彼の文章は、織り成すシーンを子供たちのある種の主体性を映像的に魅せることに成功している点であろう。