2009年7月31日金曜日

『天使と悪魔』

※ネタバレ注意

中、下、はものすごい勢いで読み進めました。

いやぁ、おもしろかった・・・!

▼読み終えての感想

業をなし終えたあとの、神のカメルレンゴへの沈黙がジャンヌダルクを彷彿とさせてなんか切なかった。

その篤い信仰心故に、奇行と思われるような行動をとり、それでいて神々しいまでの自信にみなぎる姿。

そこに、作者自身の善とか悪とかの判断を加えずに描写されていたので、ちょっと安心。

それでいて、科学の中に神を見るというのもヴィットリアの意見はいかにも現代的だなぁ、と。

カメルレンゴの行動は、人間の中にも“神的”な存在があることを証明しているよい例ともなりうるわけで、人が自分の力を、自分を超えた何かによって確信させられるとき、普通では考えられないような力を出したという現象、それこそが、まさに人間という生物を含めたところの自然の持つ不思議な力なんですね。多分。




▼なぜに、この小説はこんなにおもしろかったのか

サスペンス的な物語の展開とどんでん返し、あとはそれ以上にカトリックの話やイルミナティを扱っていることが人の知的好奇心を刺激するのでしょうか。

宗教的な話題って、全世界のほとんどの人が敬虔な信仰を失っている現代の野次馬精神に火をつけるだけでなくて、どこかでそのものを否定すること許されない禁忌に対する冒涜感があるのがまた読み手にスリルをもたらすんでしょうか。

これは、イタリアの美術を実際の舞台にした映画はまた違った意味で一見の価値ありそうですね。

と、思ったけどもう映画はやってなさげー。



ストーリーとはちょっと関係ないけど、思ったこととしては;
  • 「神性」に対する興味
  • 内省によっていたる境地は神性への到達足りうるのか
  • 神性と精神性(スピリチュアルの世界)の違い
あたり。

ある種、現代の人間は、自分たちの力を信じてやってみよう!的な風潮の中にあるけれど、その動きというのは本当に正しいのか、というのがこれらの疑問の根幹にあると自分では思います。

つまり、神や、まぁ、よく言われるのは宇宙の力的なものを心から信じようと言ったときに、本当にそれは自分を超えた、いや、凌駕するほどの力を持つものであると感じ、「畏敬」の念を人は持っているのか?ということ。

この何を持っても超えることのできない凌駕する何かに頭を垂れる瞬間を人は自ら放棄し、偉くなったつもりになっているのではないか、とちょっと危惧したりするわけです。

まぁでも、百聞は一見にしかず。

荘厳な、そうでなくても、簡素でいて確固たる何かの満ちる場所、たとえば、教会はそう感じられるように非常に上手に作られている建物だと思うのだけど、に行けば心が洗われるような感覚を感じることができるわけなんですよね。

個人的には、教会みたいな神聖な場所は好きです。

たまに、行きたくなるよね。




2009年7月27日月曜日

『怖るべき子供たち』


私が、ジャン・コクトーに興味を持ったきっかけは、テレビか何かでたまたま見た、彼の手がけた教会が美しかったからだ。

名前は、知っていたけれど、彼の文学よりも、彼の詩よりも、彼の描き出す線が好きだった。

藤田嗣治の絵と同じぐらいコクトーの絵が好きで(I love Fujita so much!!!)、藤田の裸婦の絵を携帯電話の待ち受け画面にしていて、後輩にドン引きされてからは、コクトーのパリの絵を画面に設定しているぐらいなのだ。

その後、ジャン・コクトーの多彩ぶりに興味を持ち、堀口大學の訳したコクトー詩集を手にはしたものの、原文の美しさにあたる機会がなかったために(詩に関しては、完全なる原語主義です!)、コクトーは私の中で待受画面の人どまりになってしまっていた。

そして、つい最近、松山ケンイチのスペシャル・カバーとかいう角川文庫のキャンペーンのおかげで、店頭で平積みされたコクトーに再び出会った。

怖るべき子供たち、だ。

子供には、確かに、彼らだけのルールによって統制される空間・時間がある、ということを意識の上に引っ張り出してくれる本である。

そのルールによって生み出される秩序は、もはや常識の世界に生きる私たちにとっては理解しえない世界でありながら、常に、大人と呼ばれる人々の世界とパラレルに存在する安定感を持っている。

私たちは誰もがその過程を潜り抜けており、本能的にその存在を無視できない。

子供らの世界の存在を誰もが直感するからこそ、この物語が、寒気ただよう、 terribleな(狂気じみた)物語となりえることを、ジャン・コクトーは確信していたと感じる。

思い返してみれば、私自身も、子供のころに確かにあるルールを持って友達と独自の世界に浸っていたことがある。

そして、それは思い返すことがかろうじて許されたとしても、言語化して、他人と、そのときに一緒に世界を創り上げた友達とでさえ共有することは決してゆるされないものであると私は思っている。

だからこそ、この本の主人公であるエリザベートと弟のポールに狂気はまったく感じないし、特異性も感じない。

その代わりに、その現実味によって緊迫感すらある戦慄を覚えるのだ。

そして、コクトーの無邪気な確信と、その(本著作による)実現こそが、彼が天才的な感性の持ち主であることの証明だ。

何しろ、彼がこの作品を完成させたのは40歳前後なことを考えれば、子供の頃の遊戯の意味をここまで鮮明に取り出しながら、同時に再現することが可能な鋭さを持ち合わせていたことになるからだ。







角川文庫の訳者は、油彩画家の東郷青児であったが、彼はあとがきにこう記している。

“画家の私から見ると、この詩小説はほとんど色彩を感じない。(中略)彼のパレットには灰色か、白か、さもなければ燻銀のような黒しか並べてないようである”

まさに!

この本は、厚い雲のたちこめる空の下、しんしんと降る雪をバックにしたある部屋の中で執り行われる遊びの模様であるる。

しかし、驚くべきは、その色彩の少なさをもってなお、彼の文章は、織り成すシーンを子供たちのある種の主体性を映像的に魅せることに成功している点であろう。







2009年7月26日日曜日

『海のエジプト展』


チケットをいただいたので、行ってきました。

中学生の頃は、エジプトふんちゃらときけば、迷わず展示会に行き、パンフレットを買っては家で眺めていたおたくっぽい私も、最近は古代エジプトとはかなり疎遠になっていたわけで、なんだか久しぶりに石だとか昔のアクセサリーを見て、そうだそうだこんなのにはまってた時期あったなぁ、と懐かしさ満載で観覧してきました。

展示物の量とチケットの値段から考えると、そんなにお得な博物展ではありませんが、海から引き上げられたエジプトの遺物というところに思いをはせる想像力を持ち合わせていれば、それなりに楽しめるかと思います。







酷評するならば;

・展示会の導線をもっと考えるべき

・説明などの表示をもっと丁寧にすべき

の2点はかなりマイナスポイントでした・・・

ということから自分の学びとしては;

・何かをやるときには、それと似た前例を探してそこにある知見をリサーチし、生かすべし

たとえば、パシフィコ横浜というだだったぴろい場所を使って展示を行うにしても、既存の美術館・博物館のつくりであったり、成功した展示会のレイアウトを真似ることはできるわけで、なぜそういう導線を作っているのかを徹底的に考え生かすことが重要。

意外性(イノベーション)は一歩ではなくて半歩取り入れるのがよい、とIDEOの本にも書いてあったし。

・展示の説明は、丁寧に。具体的なイメージの想起を目標とすべし

これはかなり具体的な話になるのですが、「??朝時代」って言われても、何年前か知らないし!と突っ込みたくなる場面が多々。

展示を見ながら人が知りたい情報というのは、たとえば、「紀元前??年」とかなわけで、具体的に数字を書いてもらえたほうが、なるほど、あのぐらいの時代か、って思えて、その時代に想いを馳せやすくなるじゃないですかー!ってか、私はそれが知りたかった。

と、まぁ、これに関しても全体的に前例のリサーチ不足、もしくは、リサーチしたけど、改善が行われていない例なんでしょうけど・・・







あ、まぁ、でも、昨日はみなとみらいの海沿いを散歩したりとなんとも“休日っぽい”まったりな一日が過ごせて良い日でした。




2009年7月15日水曜日

メモ;今週中にまとめたいこと


【イベントレポート的】

□小暮さん×いのさんセッション

□SIFE Japan国内大会及び、勝間さんの講演




□東方神起のライブで着想を得た世界の軸の話




□辻さんワークショップ

?すでにフロー状態にあるかもしれない状態で、意識をフローに向けることに意味があるのか。

?「好き」の感情が動かない状態について。集中




□編集学校ワークショップ




【キーワード】

幽体離脱系がはやる?