2014年11月15日土曜日

Book Review: 密林の語り部

タイトル:密林の語り部(岩波文庫)
作者:バルガス=リョサ(Wikipedia
訳者:西村英一郎

 「それに……」と、シュネル氏は言った。「語り部は、現在の頼りだけを持ってくるのではないという気がする。昔のことも話す。たぶん、共同体の記憶でもある。おそらく中世の吟遊詩人や歌人に似た役割を果たしているんだよ」

ラテンアメリカ文学で最初に手にした本は、リョサの作品だった。2010年、オフィスがあまりにも遠すぎた私はヒルサイドライブラリーに通っていて、そこで、本棚にバルガス=リョサの受賞の記事をみつけたのがそもそもマルケスを含むラ米の小説に触れるきっかけになったのをよく覚えている。そのとき「都会と犬ども」はものの数ページで挫折したのだけど、リョサの本はいつか絶対に読みたかったので、「密林の語り部」も岩波文庫で刊行されたときに買って、これも最初の方の章で挫折していわゆる積ん読になっていた。

10月中は仕事の関係でほとんど本を、とりわけフィクションを読んでいなくて、いくつか10月中に買って仕事が一段落したら読もうと思っていた本はいくつかあったのだけど、急に「密林の語り部」を読み通せるような気分がやってきて再び読み始めた。

フィクションとは言っても、おそらく、ペルーの密林に住む部族のことはほとんどが実際の研究やフィールドワーク資料などに基づいているのだろう。主に描かれているマチゲンガ族の風習や考え方、伝説、魔術の類いの話は示唆深く、彼らの生活が西欧スペイン語文化に浸食されていく様は何度も何度も論じられている現実の問題としても興味深く読むことができる。しかしもちろん、読み進めると最後に物語の急展開が待っている。どこかで読みながら気がついていたのかもしれないけれど、やはりその事実が明確になってくると驚くようなことで、フィクションとしても最高の物語であると唸らずにはいられない。

この本を読み切るための難関は、なんといっても、3章からの文章の読みにくさだろう。ほとんどネタバレになってしまうのだけど、1章イントロと2章の書き手の「私」の文章に続く、3章以降の「私」はどうやら2章の「私」ではないことが分かるのだが、誰の言葉なのかがよく分からない。マチゲンガ族の伝説にも精通しているのだが、時折彼らを客観視している様子が伝わってくる。これが一体誰なのかということが分かったときに、驚嘆と納得、嬉しさと寂しさ、いろいろな感情が襲ってくる。うわぁっ!と、2章の「私」と同じ感動を読み手は味わうことができる。

リョサがノーベル文学賞を獲った年だったかに、来日して東大で講演をしたのを聴いたのだけど、彼は嘘の世界を作ることで現実の問題をあぶり出したいというようなことを言っていたように思う(曖昧)。まさに、この作品も、単に密林と西欧化の問題に限らず、国を超えた民族という大きな問題までを包含する大きな問題提起と洞察がされており、一人の人がこれだけの密度の作品を書ききるということに敬服の念を禁じ得ない。

マルケスはラテンアメリカ文学ブームを牽引した功績が加味されているような気がするけれど、リョサは非常に優れた作家としてノーベル賞を獲ったのだと納得。人類学的な話が好きなら、テーマもおもしろく、文庫1冊で完結している長さを含めて、リョサの作品だと取りかかりやすい本だと思うのでおすすめしたいです。

とにかく、素晴らしい本で、Amazonのレビューを見たら、7人のレビュワー全員が★5つをつけていて、やはりな…と言った感じ。本当に読んでよかったと思える作品でした。

次は「緑の家」読みたいな…。

2014年11月11日火曜日

ELIE SAABの香水

ELIE SAABのドレスを初めて見たとき、その美しさとファンタジー性に一目惚れ。

総レースみたいな繊細さなのに、甘過ぎない世界観が好きな理由かな、と思います。

ELIE SAABさん(@eliesaabworld)が投稿した写真 on

それから、FacebookやInstagramでフォローしては日々その世界観を垣間見ては、身もだえているわけですが、日本未発売らしいELIE SAABのLE PARFUMを海外のお土産でもらったので、涼しくなってから毎日の勢いで使っております。


香りは、

トップノート: オレンジブロッサム
ミドルノート: ジャスミン
ベースノート: ローズフレーバーのシダーウッドハニー

暖かみがあるのに、フローラルな感じが気に入っています。

ファッションブランドがなぜ香水を出すのか(化粧品を出してるとこは別として)、漠然と疑問に思っていたのですが、自分たちのブランドの世界観を表現し、伝えるために、香水というのは大きな役割を果たすのだということを実感しました。

手の平サイズから広がるELIE SAABワールド。

機会があればお試しください。

追記

ELIE SAABのドレスを着てみたい場合、ウェディングドレスのブランドPronoviasのELIE SAABのラインの取り扱いが日本の店舗にもあればちょっと現実味を増しますね。あるのかなー??

2014年11月9日日曜日

TOKYO DESIGNERS WEEK2014で気になったもの

三連休で行ったTOKYO DESIGNERS WEEK2014の中で気になったものなどのメモ。

展示の中で圧倒的にクオリティが高くセクション全体で見応えがあったのがアーティストによる着物の再定義。



写真は、KOSHINO JUNKOさんのもの。清川あさみさんの着物も白い蝶が動く仕掛けがされており、とても美しかったです。

いくつか好きだったものや、興味のあるもの。

ファッションデザイナー?
プロモーション用の動画がコンテナで流れていましたが、未来的な感じが好きでした。

実際にかけてみました。見た目もかけ心地もほとんど普通のメガネと変わりません。
眼球の位置をとれる機能のついたデジタルグラス。

- 加藤良次氏の染色作品

- メキシコの学生さんの洋服の展示



<北斎漫画インスパイア展より>

amana × ARART
アプリをかざすと絵が動き出す系のARアプリARARTを利用した作品。

- OHGUSHI氏のふすま

中塚翠涛氏の書道作品

雨で、外の展示はほとんど回れなかったのが残念でしたが、全体的に見応えのある展示会でした。

2014年9月10日水曜日

Book Review: 盆栽 / 木々の私生活


タイトル:盆栽/木々の私生活(白水社 EXLIBRIS)
作者:アレハンドロ・サンブラ(Web
訳者:松本 健二

盆栽の世話をすることはものを書くことに似ている、とフリオは考える。ものを書くことは盆栽の世話をすることに似ている、とフリオは考える。

本屋になくてもAmazonには本は大抵あって、その逆はほとんど成り立たないと分かっていても、本屋に行くのは私にとっては大事な習慣になっていて、それは、本を買うためでもあるし、アイディアを思いつくためではないが、本を探すためではある。大抵は、海外文学の棚の前にしばらく立って新刊既刊本問わず端からチェックしていく。

ラテンアメリカ文学のコーナーで表紙とタイトルを見て、正直どうかな〜、と思ったこの本。盆栽なんて、日本趣味をかじったラテンアメリカの作家がアーティストぶるにはちょうどいい題材のように感じたからなのだけど、帯に書かれた〈ポスト・ボラーニョ〉に惹かれて読んでみることに。結果的には特に日本趣味的な感じではなく、普通におもしろかった。

この本に収録されている「盆栽」と「木々の私生活は」もとは別々に出版されているらしいのだけれど、主人公フリオと主人公フリアンがそれぞれ恋仲にあった女性との別れを体験する人生のある瞬間が切り取られた物語。回想や、周囲の人の話にとあちこちに言及しながら次第に物語の輪郭が分かってくる。直線的な物語ではないけれど、難解ではない。

特筆すべきなのは、シンプルな文体で、ミニマリズムと呼ばれているらしい。ミニマリズム文学って初めて読んだような気がする。とても現代的な文章という印象。ミニマルだけど、繰り返しも使われていたりしてリズミカル。

ミニマリズムを代表する作家として1980年代に活躍したレイモンド・カーヴァーなども有名だというので、村上春樹の訳した短編をいくつか読んでみたけれど、サンブラさんの文体はカーヴァーのとも少し違う感じ。

個人的な好き嫌いも大いに関係すると思うのだけど、サンブラさんが書いてみせたミニマリズムの文体はいくつも作品を重ねて書いて行くには物足りなくなってきてしまうのではないか、という印象。でも、商業的にこういう文体が流行ることはありそう。

ミニマルな文体って、極めれば悟りの境地みたいになるのかしら...。どうなんだろう?

ちなみに、トップの写真は「盆栽」の挿絵。サンブラさんのホームページを見たところチリ版(?)「盆栽」ではこの絵が表紙になっていました。

 

2014年8月23日土曜日

Book Review: 枯木灘、熊野集 + 熊野旅行


タイトル:枯木灘(河出文庫)/熊野集(講談社文芸文庫)
作者:中上健次(Wikipedia

石碑は永久に勃起し続ける男の性器だった。いや萎えることも、朽ちることもない不死への願いだった。秋幸はその二の腕に刺青をした体の大きな男が、どういう姿でこの石碑にぬかずいているかを想像した。男の頭の中には、織田信長の軍に破れ、一向宗の門徒の村が女子供まで殺され焼き打ちに会い、孫一が跛を引き、わずかの手勢と共に山を降りてくるのが見えている。山中を這うように、海のある方へ、光のある方へと降りてくる一党がいる。光の方へ、海の方へ。それが男の遠つ祖(おや)の願いだった。戦が、信仰を持つ者と持たない者の争いだった。仏は、敗走する者らのそばにあった。光があり、海があるそこでは、仏と共に暮らす最後の楽園がある。
「枯木灘」より 
 

先日、人生二度目の熊野に行ってきた。一度目は高校を卒業したてで熊野が一体何なのかもよく分かっていなかったのが本当のところだが、本宮での勝守にかけた願が10年ほど経った今になって叶った気がして、お守りも返却したかった。熊野が舞台の本ということで中上健次の「枯木灘」を事前に読み、旅行には「熊野集」を携えた。

枯木灘は読み始めてすぐに、これはマルケスの百年の孤独に似ているのではないかとのめり込んだ。血のつながった複雑に入り組んだ一族の物語。もちろん舞台は日本である。日本の熊野の枯木灘の一夏の時間を切り取って描かれた物語である。蠅の糞の王と呼ばれくさった龍造の血を受け継ぐ秋幸の血の物語である。血縁と流血の物語。

マルケスと中上は似ているところもあるとは言え、決定的に違うところもある。それは、性の描き方だ。マルケスはあくまでも性もファンタジーの的な描写にとどめているが、中上のそれは美しさや日本的退廃感などもなく、猛禽的でリアル過ぎて読むときに顔をしかめたくなるような表現が多い。故に、女子には迂闊に薦められない本でもあるが、生と死の距離だけでなく、生と性の切り離せない一体性も描き出している。そのあたりが、日本の文学の歴史の長さを感じさせもする。

最初の方から、主人公秋幸の血が暴走しそうな描写がいくつか出てくる。盆に向かって物語がクライマックスを迎えるのはいかにも日本的であるが、真っ当なストーリーを生み出すのは、きれいな文章などではなく、繰り返しの多い、括弧付きの文章も一筋縄では行かない方言のざらざらとした文体である。けれど、その読みにくさが、徐々に切ることのできない閉塞的な血縁の関係をあぶり出していくのに書き手の力量を感じる。



今回の熊野旅行は、ずっと雨に降られていた。しとしとと表現できそうな雨はかなりの雨量だったのか、川や土砂に囲まれた土地柄なのか、伊勢の方から熊野に入るのも出るのもトラブルに見舞われたが、靄に囲まれた熊野の風景は木々の佇まいをより一層重みのあるものにしていた。

枯木灘は文庫本一冊の長編だが、熊野集はエッセイと小説が入り交じって配置された短編集のような本である。小説の方は時代設定もばらばらだが、エッセイも含め全ては熊野の根底に流れる摩訶不思議と現実の狭間の何か逃れられないものを背負い込んだ人々の物語であった。

熊野集を読むと中上自身が生と死がそこらへんに散らばっているような場所に暮らしてたということが分かる。ラテン・アメリカ文学が好きな理由に、南米の緊迫感みたいなことを書いた。それは生活と死が近いために感じられるものだと思っていたけれど、中上の作品においては生と死が近いというよりそれらはもはや混在しており、それは逃れることのできない死への闘争みたいな必然を伴って中上にまとわりついている。死への意識、死への闘争から中上は逃れたかったのか、逃れられないと知っていたのか、それを作品に昇華させることに重きを置いていたのか、いずれにせよ中上には生と死の重みがのしかっていたのだと思う。彼は、それを文章に換えることで生きているという印象を持たずにはいられなかった。

中上の本を読んで日本にも生と死がほんの近い距離にあった時代がつい最近まであったのだと思い知った。もしかしたら今でも私が安住する都会以外の地は生と死の緊張感と暴力性が物の道理を支配しているのかもしれない。都会暮らしが身に染みついている私には熊野に旅行で数日訪れたところで、生と死が日常にある様は私には一生知ることのできない感覚だと知っているからこそ、私は中上のような日本人が書いた文章を顔をしかめながらでも読み続けなたいと思っているのかもしれない。

 

この本、熊野の概略の勉強によかったです。

2014年7月24日木曜日

Trekking: 谷川岳



前日まで台風の余波でロープウェイが動くか心配だったのですが、当日は良い天気の谷川岳に登ってきました。登ったと行っても、行きも帰りもロープウェイを利用したので正確には尾根歩きがメインのトレッキングでした。

谷川岳は、遭難者数がギネスに載っていたり、山頂での天気が変わりやすいと聞いていたのでかなりビビっていたのですが雨や雲に阻まれることもなく行って帰ってくることができました。前回の平標山のが天気的にも距離的にも過酷でした。

途中の天狗のトマリ場から登ってきた方を見下ろした写真。ここで大体半分ぐらい。



谷川岳にはトマノ耳、オキノ耳と山頂と呼べるものが2つあってどちらもかなり混雑しており、お昼を食べる場所を探すのに苦労。

写真は、オキノ耳を少し行ったあたりでお昼を食べたときの山頂からの眺め。晴れてるけど、他の山は雲かかってますね。



しかも、基本的にロープウェイ後は道なりなので迷うこともないし、岩場の前後では渋滞が起こるほどの人手なので比較的安心して登れます。下山後はロープウェイ乗り場の建物内で十分に休憩もできるしレジャーとして良い山だと思います。

途中、ふくらはぎが攣って年配の集団の方々に芋づる的に抜かれてしまったのは秘密で…。

下山後は、おきまりの温泉。今回は町営の湯テルメに行きました。

駐車場に入るのに、並ぶほどではないですが待機時間があったり、洗い場も混雑でタイミングによっては裸で並ばなければいけない程の盛況ぶりでした。

ちなみに、同じ水上温泉地区の宝川温泉はテルマエ・ロマエのロケ地にもなっていたそうです。

2014年6月20日金曜日

Trekking: 平標山(たいらつぴょうやま)


梅雨の合間の晴れ。当初予定していた谷川岳のモノレールがお休みだったので、新潟県谷川連峰に属する平標山に行ってきました。ふもとの街は晴れていたのですが、山に登り始めるあたりからパラパラと雨が降ったり止んだり、雲が風で運ばれてきて水滴がつくような中を歩くこともありました。

駐車場は、三国小学校の少し手前なのでそこをめざしいくと分かりやすかったかもしれません。料金は500円です。

最初は鉄塔を目指して登ります。ここまでは山道らしい山道。

鉄塔後は、比較的なだらかな道からの、見晴らしのいい階段を上っていきます。大変だけど、時折雲に遮られながらも視界が開けて、THE山といった感じの山登りでした。

平標山にて、お弁当。山頂は雲の中でかなり気温が低かったです。10度はなかったかな。レインウェア必須の山登りでした。



平標山から少し下りた山小屋から山頂を臨むと、左右で天気の違いが明らかなのが分かります。右側は、仙ノ倉山(せんのくらやま)なのですが、体力的にも天気的にもきついかもということで今回は平標山からすぐに降りてきてしまいました。

遊歩道から山道への入り口にはこんな石が置いておりました。(今回のルートでは、出口にあたるところ。)



このあと林道と言うなの砂利道と川沿いの道をトータル一時間ぐらい歩いて駐車場に戻ります。

その後は、温泉に。

今回は、雪ささの湯にお世話になりましたが、パーキングでおすすめされた町営の温泉(名前忘れてしまいました)も帰り道に見たらきれいそうでした。

夕飯は、越後湯沢駅周辺のむらんごっつぉで、おしゃれに食事。ホテルとの提携しているお食事処らしいので事前に席の空きがあるか確認したほうがよさそうです。山菜もりもりのコース、おいしかったです。ここはまたぜひ行きたい!

レインウェア

今までは弟のレインウェアを借りて持って行ったのですが、山に登る回数もぼちぼち増えてきたので意を決してミズノのベルグテック EX・ストームセイバーVレインスーツを購入。

しかし、後で妹に教えてもらったのですが、私が今回買ったのは3レイヤーのものらしく、暑がりの人にはEVAPの2.5レイヤーがおすすめだそうです。

山グッズは見た目だけで選べないので、難しいです...。

2014年4月20日日曜日

Trekking: 奥多摩 御前山



思ったよりも山登りが趣味として続いて行きそうなので、登った山を記録。神奈川県の大山、山梨県の金峰山に続き3つ目の山。

写真は、奥多摩名物カタクリ。4月の短い期間しか咲かない花のようなので、見られてよかった!

ルート


※記録を録りながら歩いていたわけではないので、ルートなどについてはあやふやな点もあるかもしれません。登山前には信頼できる情報の確認をお願いします。

水と緑のふれあい館」の駐車場に車を止めて歩き始める。

9:15 ダムの上を通って、登山口へ。

サス沢山を通って、惣岳山へ。サス沢からの眺めがいいと事前情報で確認していたものの、気がつかず通り過ぎてしまった。残念。

12:00ぐらい 一つ目の山、惣岳山に到着。ここまでずっと一本道。(確か)

12:15 惣岳山から御前山へは20分ほどで到着。ここでお昼ごはん。

13:00 いったん惣岳山に戻り、そこからまた別ルート、小河内峠経由で、奥多摩を駐車場を目指します。帰りは分かれ道もいくつかあるので慎重に。

峠歩きは、細い道を歩くの注意が必要ですが、今回の登山の中で一番楽しかった箇所。

小河内峠に行くまでに特に標識なく二股に分かれている道があるのですが、どちらも合流しているようです。右側(奥多摩湖側)は岩肌を下ることになるので危ないと、ちょうどそちら側から登ってきたおじいさん方に出会って止められたので、大人しく岩でない方の道出行くことに。

その後は、ひたすら下り。急斜面であまり踏み固められていないので、滑り落ちてしまわないように踏ん張るのでかなりの脚力を使いました。冷や汗かく場面も。

山を下ってからは、ダムの周りを少しばかり歩く形で駐車場に辿りつきました。

最後に、温泉もえぎの湯で汗を流して、奥多摩を後にしました。

感想


前回の金峰山に比べると標高も低く、気温も歩くのに最適で比較的余裕を持って終えることができました。



まだ、緑生い茂るという感じではなく全体的に茶色の山でしたが、地面から、枝から顔を出している芽がどれもかわいらしかったです。桜もまだ咲いていたし、他にもいろんな花があったので高山植物覚えたらもっと山登りを楽しめそうです。

あと、奥多摩の人たちはみんな気さくでいろいろ話しかけてくれました。

奥多摩には御前山以外にもいくつも山があるみたいなので、都心からもすぐなのでまた行きたいな。

2014年3月27日木曜日

Book Review: ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい



タイトル:ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい(角川書店)
作者:クリスティン・バーネット
訳者:永峯涼

わたしたちは、自閉症児を失われた子どもたちだと考えがちです。治療しなければならない、存在だと考えてしまいます。でも、自閉症児を治療するということは、科学や芸術を「治療」することに等しいのです。子どもが自分の世界から出てくるのを期待するのではなく、こちらから子どもの世界に入っていくようにすれば、明るい道がひらけると、わたしは「リトル・ライト」の親御さんたちにいつも言っています。みずからが子どもとの架け橋になり、彼らが見ているものを見ることができれば、彼らを連れ戻すことができる。

ノンフィクションを読むことはほとんどないのだけど、Honzのレビューを読んで思わず手にしてしまった。

ジェイコブは、靴ひもを結べるようになるかすら怪しいとの診断も受けたことのある重度の自閉症。にも関わらず、これを克服し(とは言っても、自閉症は治らないのでうまく付き合っているという方が適切かもしれないけれど)、数学や科学に関する天才的な才能を発揮して12歳ですでに大学に通い、研究者としても活躍しているという。

母の強い信念(もちろん、父親の信頼も!)がジェイコブの可能性を最大化していく軌跡が描かれる母の手記だ。

クリスティン(ジェイコブの母親)は、ただジェイコブの自閉症をどうにか普通の子と同じように学校に通わせたい一心で、しゃべることもできないジェイコブに対し、観察とフィードバックというコミュニケーションを取りながら彼の望むことや、彼が心地よくいられることに心を砕く。ジェイコブを天才だとメディアが騒ぎ出すまで、ジェイコブを天才に育てようなどとは考えておらず、ただ彼の好きなことに集中できる環境を提供しているだけということにも驚く。

ジェイコブは、「自閉症で天才的なIQの持ち主」と少し普通ではないのかもしれないけれど、クリスティンの、子どもを全面的に観察し、信頼するやり方はジェイコブだけでなく、弟の(身体的障害を持って生まれ、克服した)ウェズリーや(至って普通の)イーサン、他の自閉症の子どもたちの才能や魅力も最大限に引き出している。

その人の中にある可能性を信じて、子どもだけでなく、人に接するときの大切なヒントをもらえる本。


※角川はしょっちゅうKindleで単行本の半額近いセールをしているので、そのタイミングを狙って買うといいと思います。

2014年3月17日月曜日

Book Review: 眠れる美女、わが悲しき娼婦たちの思い出


タイトル:眠れる美女(新潮文庫)
作者:川端康成(Wikipedia

タイトル:わが悲しき娼婦たちの思い出(新潮社)
作者:ガブリエル・ガルシア=マルケス(Wikipedia
訳者:木村 榮一

たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。

上の引用文は、川端康成の「眠れる美女」の冒頭部で、マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」の最初のページにも記されている一文。

マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」は、川端康成の「眠れる美女」から着想を得ているそうで、週末に「眠れる美女」を読み、マルケスの方も読み返してみた。

「眠れる美女」は、まだ自分は現役で男としてやっていける(機能している!)と思っている江口老人(67歳)が友人に教えられただ裸で眠る女の子の横で眠れるという宿に通うお話。5晩、6人の眠り続ける女の子と夜を伴に過ごすことで、母や娘を含む自分が関わりを持ってきた女性を中心に過去を思い出して郷愁に浸る。初めのうちは、宿の存在や眠り続ける女性への江口老人の禁を犯したいという危うさにひやひやするのだけれど、徐々にその脆さみたいなものが生そのものの危うさ、すなわち死に近づいていく感じが薄気味悪い。

一方、「わが悲しき娼婦たちの思い出」に出てくる「私」は、90歳の誕生日に若い女の子の処女を奪うぞという意気込み娼館に行くものの、日常生活に疲れ眠り続ける女の子を前に何もせずに一晩を過ごしてしまうことを事の始まりとして、生まれて初めての恋に胸を焦がし、一人の女の子と逢瀬を繰り返すことで恋の力によって以前にもまして元気になっていく。どうやらハッピーエンドになりそうな気配を残してストーリーは終わっている。

どちらも、眠り続ける女性を相手に老人が妄想逞しく、ちょっと常軌を逸した愛し方をするのは同じなのだけれど、読後感も描かれているテーマも180度違い過ぎて大変興味深い。

「わが悲しき娼婦たちの思い出」は、2年前にもレビューした通り、気持ちのよい作品だという印象を今回も持った。「私」も女の子も、お互いに好き合っているのだけど、「眠れる美女」は、はっきり言って気持ち悪くて、読み終えたあとに喉に何かつっかえたような心持ちになった。最初のうちは、眠っている女の子たちがどんな経緯で裸で眠りこけているのかも分からないのだけど、どうやら老人と添い寝するために自ら薬を飲んで裸で布団に入っていることが分かったあたりから眠り続ける美女と間の薄い愛撫でさえも気持ち悪いものに思えてきてしまう。しかも、老人だけでなく女の子までもが死んでしまうのだけど、これがビジネスライクに片付けられていく様子がなんとも嫌な感じだった。これはあくまでも、風俗文化に縁のない女性の立場の感想なのかもしれないけれど...。

しかし、この強烈なモチーフ、裸で眠る美女に老人が添い寝するという図のアンバランスさには、惹かれるところがある。死を意識する老人がその対局である生命力あふれる若さに人間の根源的な欲求である性の部分で揺さぶりをかけられるとどんなことが起こるのか、ということを川端の作品からマルケスがインスピレーションを受けたというのは納得できる。

そして、このモチーフの描かれ方、日本とコロンビア(実際にはどんな土地なのかよく知らないけれど)という二つの文化の違いが多分に反映されていそうだと思った。日本には眠れる美女を愛でる文化が実際にありそうなものだし、南米圏コロンビアに関して言えば、そんな七面倒臭いことを専門とする場所などは存在しなさそうである。現に、マルケス作品での眠れる美女の登場はたまたま起きたことで、起きた彼女と対面することが予感されている。一方、川端作品では、眠れる美女たちは死の近くで眠っており、苦しんでいるために浮き出たあぶらまでもが江口老人にとって愛でるべき対象となっていた。

ところで、この気持ち悪さ、死への接近が、美しい女の子たちをこれまた美しい文章で描き出されいている「眠れる美女」は、川端康成のなのか、老人のなのか、男性のなのか、人間のなのか、趣味の悪さがこれでもかというほどうまいこと描かれているまさに日本が誇る傑作文学作品であることは間違いないのだけれど、「じじいの退廃も大概にしろ!」と心の中で叫びたい気持ちになることも必至でしょう。

 


2014年2月8日土曜日

Book Review: フーコーの振り子


タイトル:フーコーの振り子(文春文庫)
作者:ウンベルト・エーコ(Wikipedia
訳者:藤村 昌昭

エーコの小説作品は2010年に読み終えた薔薇の名前に続いて2作目。

小さな出版社に勤める3人の愉快な仲間たちが、テンプル騎士団が関与している「計画」を、様々な歴史資料や事実、オタクたちの持ち込む資料をベースに「ねつ造」していく。最初は嘘だと割り切っていたのに、徐々にその嘘に3人は飲み込まれていき、ついには3人中2人は死んでしまうというお話。

テンプル騎士団や西洋の歴史についてのエーコの膨大な知識に基づいて作られた小説で、一癖あるものの個人的には「薔薇の名前」よりも読みやすいかな、と思いました。

(明言はされていないけれど、おそらく)癌で死んだディオッターレヴィとテンプル騎士団の秘密を本気で探し求めている集団に巻き込まれたことに気がついたベルボが交わす会話の一部を引用。

じゃ、細胞って何なんだ。何か月ものあいだ、僕らは敬虔なラビのように自分たちの口で『神の書』の文字の組み合わせをあれこれ唱えてきたんじゃないのか。GCC、CGC、GCG、CGG。その僕らの口が言っていたことを、僕らの細胞が学んでいたのさ。それで僕の細胞はどういうことになった?細胞が自分で別の『計画』を作り上げ、自分たちのために勝手に独り歩きを始め、僕の細胞は他の誰のものでもない自分だけの話を作り出そうとしている。今では僕の細胞は『神の書』も世界中の本も、すべてアナグラムに変換すれば悪口雑言を吐くことだってできることを学んだのさ。それも僕の体を使って、その方法を習得したんだよ。

彼らが死に至る原因は同じではないが、つまりは、ディオッターレヴィは体の内側のアナグラムによって、ベルボは外側の世界のアナグラムによって、どちらも正しく進行していたはずの秩序が乱されてしまうことによるものだった。

人生はめちゃくちゃになってしまったけれど、悲壮感など漂わせずに、ひたすらシニカルそしてコミカルに物語は進んでいく。ベルボが死ぬ場面などは、え!まさか、そんな死に方?さすがにまだ生きているんじゃないの?と思ってしまうほど。

ただでっちあげであったはずのふわふわしたものがついに現実を侵食して、それこそが現実になってしまう感じが逆に恐ろしくもある。一見すると人生のトーンは変わっていないのに、何かが確実に変わってしまって、気がついたときには後戻りできないところまで崩れてしまっていることってあるのかもしれない。


* * *


「フーコーの振り子」のレビューを書くために、過去の「薔薇の名前」のブログエントリーを読み返してみての引用語句を見て思わずにやりとしてしまう。

わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから。

エーコはまるで正反対の主張を主人公たちにさせているようにも見える。

ここで、エーコは「フーコーの振り子」の中でディオッターレヴィの言葉を借りて「愛のない」言葉をアナグラムで唱える危険性に言及していることを思い出さなければいけない。

エーコは何か(真実や人、神、あるいは言葉そのもの)に対しての深い愛に裏打ちされた、謙虚な言葉に価値を置いているように感じられる。そして、言葉を軽んじることに対しては、その言葉を現実ではないと否定するよりは、何か流れを乱すものとして位置づけ、死を呼び込むものとして捉えているのかもしれない。

ここかしこに文章のあふれる時代だからこそ、記号や言葉の重要性とさらにその正しい配置、順序の重要性を実証し続けようとする彼の作品は、ただのフィクション以上の意味を持っているのかもしれない。

2014年1月5日日曜日

2014年: あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます。

もう5日ですが、本日を仕事初めとしてゆっくりめに仕事の整理などから開始している本日です。

初夢には、マルケスの小説に出てきて名前だけ知ってるイチシドリという見たこともない鳥が大群になって出てきて、友喰いをしていたり、狐がたまごを産んだり、友人にMBTIテストをしてナンパ男との相性を占ってあげるという場面転換のやたら多い謎な夢を見たりしましたが、一年を占う初夢としては、死と誕生のモチーフが入っているということで今年は「再生」をテーマにした年としたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願い致します。