アマゾンにもない本で、新宿区の閉架書庫にあるものをわざわざ取り寄せて読んだ「東方巡礼」。
きっかけはシンクロにシティという本で言及されていたこと。
久々にきちんと意味が理解できない本だった。
読みながらも、読み終わってからも腑に落ちない感覚が残る。
こういう意味の判然としない本でも、最後まで読みきって頭のどこかに置いておくという術を持っている人間の忍耐力と記憶力はすばらしいと思う。
こういう本は、大抵、いつか、何年後か数週間後か分からないけれど、いつか思い出すことになる。
ふと、あ、これがあの本で言いたかったことなのだ、と。
それを待つしかない。
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芸術のつくった人物がまぎれもなく活気を持っているように見えるのに、芸術家自身は往々半分の人間に過ぎないように見えるのは、一体どうしたわけか、と私は召使レーオに尋ねた。レーオは私の問いかけにけげんそうに私を見つめた。それから腕にかかえいていたむく犬をはなして言った。「母親も同じことです。母親は、子どもを産み、乳と美しさと力を子どもに与えてしまうと、自分自身は目だたなくなり、もうだれにも問題とされなくなります。」
「だが、それは悲しいことだ」と私は、格別たいして考えもせずに言った。
「それだって、他のすべてのことより悲しいわけではない、と思います」とレーオは言った。「たぶん悲しいでしょう。が、美しくもあるのです」
「法則が?」と私は好奇心をそそられて尋ねた。「どんな法則なのさ、レーオ?」
「奉仕する法則なのです。長く生きようと欲するものは、奉仕しなければなりません。支配しいいいいようと欲するものは、長生きしません」
「それならなぜ多くの人が支配しようと努力するんだろう?」
「知らないからです。支配するように生まれついている人は少数です。そういう人たちは、支配しても楽しく健康でいられます。ところが、ただ野心をもって努力して支配者になったものは、みな無に終ってしまいます」
「どんな無に終わるのさ、レーオ?」
「例えば療養所で」
高橋健二訳『ヘッセ全集8 知と愛』新潮社版、1982年 p247
像の内部で何かが動くのが、ゆっくり、かぎりもなくゆっくりと、南無っているヘビが動くように、動くのが見えた。そこでは、何かが起こっていた。非常にゆっくりと穏やかではあるが、絶え間ない流れか溶解のような何かが起こっていた。しかもそれは私の似姿からレーオの像へと溶け込むか、流れこむかしていた。そして自分の像がますますレーオに傾き、流れ込み、彼を養い強めようとしているのを、私は悟った。時とともに実体はあげて一つの像から他の像へ流れ移り、ただ一つの像だけが残るだろう、と思われた。すなわち、レーオは大きくなり、私は小さくなっていかなければならなかった。
同 p280-281
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