2014年8月23日土曜日

Book Review: 枯木灘、熊野集 + 熊野旅行


タイトル:枯木灘(河出文庫)/熊野集(講談社文芸文庫)
作者:中上健次(Wikipedia

石碑は永久に勃起し続ける男の性器だった。いや萎えることも、朽ちることもない不死への願いだった。秋幸はその二の腕に刺青をした体の大きな男が、どういう姿でこの石碑にぬかずいているかを想像した。男の頭の中には、織田信長の軍に破れ、一向宗の門徒の村が女子供まで殺され焼き打ちに会い、孫一が跛を引き、わずかの手勢と共に山を降りてくるのが見えている。山中を這うように、海のある方へ、光のある方へと降りてくる一党がいる。光の方へ、海の方へ。それが男の遠つ祖(おや)の願いだった。戦が、信仰を持つ者と持たない者の争いだった。仏は、敗走する者らのそばにあった。光があり、海があるそこでは、仏と共に暮らす最後の楽園がある。
「枯木灘」より 
 

先日、人生二度目の熊野に行ってきた。一度目は高校を卒業したてで熊野が一体何なのかもよく分かっていなかったのが本当のところだが、本宮での勝守にかけた願が10年ほど経った今になって叶った気がして、お守りも返却したかった。熊野が舞台の本ということで中上健次の「枯木灘」を事前に読み、旅行には「熊野集」を携えた。

枯木灘は読み始めてすぐに、これはマルケスの百年の孤独に似ているのではないかとのめり込んだ。血のつながった複雑に入り組んだ一族の物語。もちろん舞台は日本である。日本の熊野の枯木灘の一夏の時間を切り取って描かれた物語である。蠅の糞の王と呼ばれくさった龍造の血を受け継ぐ秋幸の血の物語である。血縁と流血の物語。

マルケスと中上は似ているところもあるとは言え、決定的に違うところもある。それは、性の描き方だ。マルケスはあくまでも性もファンタジーの的な描写にとどめているが、中上のそれは美しさや日本的退廃感などもなく、猛禽的でリアル過ぎて読むときに顔をしかめたくなるような表現が多い。故に、女子には迂闊に薦められない本でもあるが、生と死の距離だけでなく、生と性の切り離せない一体性も描き出している。そのあたりが、日本の文学の歴史の長さを感じさせもする。

最初の方から、主人公秋幸の血が暴走しそうな描写がいくつか出てくる。盆に向かって物語がクライマックスを迎えるのはいかにも日本的であるが、真っ当なストーリーを生み出すのは、きれいな文章などではなく、繰り返しの多い、括弧付きの文章も一筋縄では行かない方言のざらざらとした文体である。けれど、その読みにくさが、徐々に切ることのできない閉塞的な血縁の関係をあぶり出していくのに書き手の力量を感じる。



今回の熊野旅行は、ずっと雨に降られていた。しとしとと表現できそうな雨はかなりの雨量だったのか、川や土砂に囲まれた土地柄なのか、伊勢の方から熊野に入るのも出るのもトラブルに見舞われたが、靄に囲まれた熊野の風景は木々の佇まいをより一層重みのあるものにしていた。

枯木灘は文庫本一冊の長編だが、熊野集はエッセイと小説が入り交じって配置された短編集のような本である。小説の方は時代設定もばらばらだが、エッセイも含め全ては熊野の根底に流れる摩訶不思議と現実の狭間の何か逃れられないものを背負い込んだ人々の物語であった。

熊野集を読むと中上自身が生と死がそこらへんに散らばっているような場所に暮らしてたということが分かる。ラテン・アメリカ文学が好きな理由に、南米の緊迫感みたいなことを書いた。それは生活と死が近いために感じられるものだと思っていたけれど、中上の作品においては生と死が近いというよりそれらはもはや混在しており、それは逃れることのできない死への闘争みたいな必然を伴って中上にまとわりついている。死への意識、死への闘争から中上は逃れたかったのか、逃れられないと知っていたのか、それを作品に昇華させることに重きを置いていたのか、いずれにせよ中上には生と死の重みがのしかっていたのだと思う。彼は、それを文章に換えることで生きているという印象を持たずにはいられなかった。

中上の本を読んで日本にも生と死がほんの近い距離にあった時代がつい最近まであったのだと思い知った。もしかしたら今でも私が安住する都会以外の地は生と死の緊張感と暴力性が物の道理を支配しているのかもしれない。都会暮らしが身に染みついている私には熊野に旅行で数日訪れたところで、生と死が日常にある様は私には一生知ることのできない感覚だと知っているからこそ、私は中上のような日本人が書いた文章を顔をしかめながらでも読み続けなたいと思っているのかもしれない。

 

この本、熊野の概略の勉強によかったです。