2014年3月27日木曜日

Book Review: ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい



タイトル:ぼくは数式で宇宙の美しさを伝えたい(角川書店)
作者:クリスティン・バーネット
訳者:永峯涼

わたしたちは、自閉症児を失われた子どもたちだと考えがちです。治療しなければならない、存在だと考えてしまいます。でも、自閉症児を治療するということは、科学や芸術を「治療」することに等しいのです。子どもが自分の世界から出てくるのを期待するのではなく、こちらから子どもの世界に入っていくようにすれば、明るい道がひらけると、わたしは「リトル・ライト」の親御さんたちにいつも言っています。みずからが子どもとの架け橋になり、彼らが見ているものを見ることができれば、彼らを連れ戻すことができる。

ノンフィクションを読むことはほとんどないのだけど、Honzのレビューを読んで思わず手にしてしまった。

ジェイコブは、靴ひもを結べるようになるかすら怪しいとの診断も受けたことのある重度の自閉症。にも関わらず、これを克服し(とは言っても、自閉症は治らないのでうまく付き合っているという方が適切かもしれないけれど)、数学や科学に関する天才的な才能を発揮して12歳ですでに大学に通い、研究者としても活躍しているという。

母の強い信念(もちろん、父親の信頼も!)がジェイコブの可能性を最大化していく軌跡が描かれる母の手記だ。

クリスティン(ジェイコブの母親)は、ただジェイコブの自閉症をどうにか普通の子と同じように学校に通わせたい一心で、しゃべることもできないジェイコブに対し、観察とフィードバックというコミュニケーションを取りながら彼の望むことや、彼が心地よくいられることに心を砕く。ジェイコブを天才だとメディアが騒ぎ出すまで、ジェイコブを天才に育てようなどとは考えておらず、ただ彼の好きなことに集中できる環境を提供しているだけということにも驚く。

ジェイコブは、「自閉症で天才的なIQの持ち主」と少し普通ではないのかもしれないけれど、クリスティンの、子どもを全面的に観察し、信頼するやり方はジェイコブだけでなく、弟の(身体的障害を持って生まれ、克服した)ウェズリーや(至って普通の)イーサン、他の自閉症の子どもたちの才能や魅力も最大限に引き出している。

その人の中にある可能性を信じて、子どもだけでなく、人に接するときの大切なヒントをもらえる本。


※角川はしょっちゅうKindleで単行本の半額近いセールをしているので、そのタイミングを狙って買うといいと思います。

2014年3月17日月曜日

Book Review: 眠れる美女、わが悲しき娼婦たちの思い出


タイトル:眠れる美女(新潮文庫)
作者:川端康成(Wikipedia

タイトル:わが悲しき娼婦たちの思い出(新潮社)
作者:ガブリエル・ガルシア=マルケス(Wikipedia
訳者:木村 榮一

たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した。

上の引用文は、川端康成の「眠れる美女」の冒頭部で、マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」の最初のページにも記されている一文。

マルケスの「わが悲しき娼婦たちの思い出」は、川端康成の「眠れる美女」から着想を得ているそうで、週末に「眠れる美女」を読み、マルケスの方も読み返してみた。

「眠れる美女」は、まだ自分は現役で男としてやっていける(機能している!)と思っている江口老人(67歳)が友人に教えられただ裸で眠る女の子の横で眠れるという宿に通うお話。5晩、6人の眠り続ける女の子と夜を伴に過ごすことで、母や娘を含む自分が関わりを持ってきた女性を中心に過去を思い出して郷愁に浸る。初めのうちは、宿の存在や眠り続ける女性への江口老人の禁を犯したいという危うさにひやひやするのだけれど、徐々にその脆さみたいなものが生そのものの危うさ、すなわち死に近づいていく感じが薄気味悪い。

一方、「わが悲しき娼婦たちの思い出」に出てくる「私」は、90歳の誕生日に若い女の子の処女を奪うぞという意気込み娼館に行くものの、日常生活に疲れ眠り続ける女の子を前に何もせずに一晩を過ごしてしまうことを事の始まりとして、生まれて初めての恋に胸を焦がし、一人の女の子と逢瀬を繰り返すことで恋の力によって以前にもまして元気になっていく。どうやらハッピーエンドになりそうな気配を残してストーリーは終わっている。

どちらも、眠り続ける女性を相手に老人が妄想逞しく、ちょっと常軌を逸した愛し方をするのは同じなのだけれど、読後感も描かれているテーマも180度違い過ぎて大変興味深い。

「わが悲しき娼婦たちの思い出」は、2年前にもレビューした通り、気持ちのよい作品だという印象を今回も持った。「私」も女の子も、お互いに好き合っているのだけど、「眠れる美女」は、はっきり言って気持ち悪くて、読み終えたあとに喉に何かつっかえたような心持ちになった。最初のうちは、眠っている女の子たちがどんな経緯で裸で眠りこけているのかも分からないのだけど、どうやら老人と添い寝するために自ら薬を飲んで裸で布団に入っていることが分かったあたりから眠り続ける美女と間の薄い愛撫でさえも気持ち悪いものに思えてきてしまう。しかも、老人だけでなく女の子までもが死んでしまうのだけど、これがビジネスライクに片付けられていく様子がなんとも嫌な感じだった。これはあくまでも、風俗文化に縁のない女性の立場の感想なのかもしれないけれど...。

しかし、この強烈なモチーフ、裸で眠る美女に老人が添い寝するという図のアンバランスさには、惹かれるところがある。死を意識する老人がその対局である生命力あふれる若さに人間の根源的な欲求である性の部分で揺さぶりをかけられるとどんなことが起こるのか、ということを川端の作品からマルケスがインスピレーションを受けたというのは納得できる。

そして、このモチーフの描かれ方、日本とコロンビア(実際にはどんな土地なのかよく知らないけれど)という二つの文化の違いが多分に反映されていそうだと思った。日本には眠れる美女を愛でる文化が実際にありそうなものだし、南米圏コロンビアに関して言えば、そんな七面倒臭いことを専門とする場所などは存在しなさそうである。現に、マルケス作品での眠れる美女の登場はたまたま起きたことで、起きた彼女と対面することが予感されている。一方、川端作品では、眠れる美女たちは死の近くで眠っており、苦しんでいるために浮き出たあぶらまでもが江口老人にとって愛でるべき対象となっていた。

ところで、この気持ち悪さ、死への接近が、美しい女の子たちをこれまた美しい文章で描き出されいている「眠れる美女」は、川端康成のなのか、老人のなのか、男性のなのか、人間のなのか、趣味の悪さがこれでもかというほどうまいこと描かれているまさに日本が誇る傑作文学作品であることは間違いないのだけれど、「じじいの退廃も大概にしろ!」と心の中で叫びたい気持ちになることも必至でしょう。