作者:ウンベルト・エーコ(Wikipedia)
訳者:藤村 昌昭
エーコの小説作品は2010年に読み終えた薔薇の名前に続いて2作目。
小さな出版社に勤める3人の愉快な仲間たちが、テンプル騎士団が関与している「計画」を、様々な歴史資料や事実、オタクたちの持ち込む資料をベースに「ねつ造」していく。最初は嘘だと割り切っていたのに、徐々にその嘘に3人は飲み込まれていき、ついには3人中2人は死んでしまうというお話。
テンプル騎士団や西洋の歴史についてのエーコの膨大な知識に基づいて作られた小説で、一癖あるものの個人的には「薔薇の名前」よりも読みやすいかな、と思いました。
(明言はされていないけれど、おそらく)癌で死んだディオッターレヴィとテンプル騎士団の秘密を本気で探し求めている集団に巻き込まれたことに気がついたベルボが交わす会話の一部を引用。
じゃ、細胞って何なんだ。何か月ものあいだ、僕らは敬虔なラビのように自分たちの口で『神の書』の文字の組み合わせをあれこれ唱えてきたんじゃないのか。GCC、CGC、GCG、CGG。その僕らの口が言っていたことを、僕らの細胞が学んでいたのさ。それで僕の細胞はどういうことになった?細胞が自分で別の『計画』を作り上げ、自分たちのために勝手に独り歩きを始め、僕の細胞は他の誰のものでもない自分だけの話を作り出そうとしている。今では僕の細胞は『神の書』も世界中の本も、すべてアナグラムに変換すれば悪口雑言を吐くことだってできることを学んだのさ。それも僕の体を使って、その方法を習得したんだよ。
彼らが死に至る原因は同じではないが、つまりは、ディオッターレヴィは体の内側のアナグラムによって、ベルボは外側の世界のアナグラムによって、どちらも正しく進行していたはずの秩序が乱されてしまうことによるものだった。
人生はめちゃくちゃになってしまったけれど、悲壮感など漂わせずに、ひたすらシニカルそしてコミカルに物語は進んでいく。ベルボが死ぬ場面などは、え!まさか、そんな死に方?さすがにまだ生きているんじゃないの?と思ってしまうほど。
ただでっちあげであったはずのふわふわしたものがついに現実を侵食して、それこそが現実になってしまう感じが逆に恐ろしくもある。一見すると人生のトーンは変わっていないのに、何かが確実に変わってしまって、気がついたときには後戻りできないところまで崩れてしまっていることってあるのかもしれない。
ただでっちあげであったはずのふわふわしたものがついに現実を侵食して、それこそが現実になってしまう感じが逆に恐ろしくもある。一見すると人生のトーンは変わっていないのに、何かが確実に変わってしまって、気がついたときには後戻りできないところまで崩れてしまっていることってあるのかもしれない。
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「フーコーの振り子」のレビューを書くために、過去の「薔薇の名前」のブログエントリーを読み返してみての引用語句を見て思わずにやりとしてしまう。
わたしは記号の真実性を疑ったことはないよ、アドソ。人間がこの世界で自分の位置を定めるための手掛かりは、これしかないのだから。
エーコはまるで正反対の主張を主人公たちにさせているようにも見える。
ここで、エーコは「フーコーの振り子」の中でディオッターレヴィの言葉を借りて「愛のない」言葉をアナグラムで唱える危険性に言及していることを思い出さなければいけない。
エーコは何か(真実や人、神、あるいは言葉そのもの)に対しての深い愛に裏打ちされた、謙虚な言葉に価値を置いているように感じられる。そして、言葉を軽んじることに対しては、その言葉を現実ではないと否定するよりは、何か流れを乱すものとして位置づけ、死を呼び込むものとして捉えているのかもしれない。
ここかしこに文章のあふれる時代だからこそ、記号や言葉の重要性とさらにその正しい配置、順序の重要性を実証し続けようとする彼の作品は、ただのフィクション以上の意味を持っているのかもしれない。
